ディストピアの日々

ディストピアと化した日本列島での地獄の日々の記録

戦後の日本人を呪縛し続ける「ジョン・フォスター・ダレスの呪縛」 その2

前の記事の続きです。

 

Gemini様への質問

バンドン会議アジア・アフリカ会議)での日本の振る舞いについて

 

回答

『1955年のバンドン会議アジア・アフリカ会議)は、まさに「ダレスの呪縛」によって、日本が**「アジアの一員」としてではなく、「アジアに送り込まれたアメリカの代理人名誉白人)」として振る舞った**象徴的なイベントでした。

 ダレスはこの会議を「反米・反植民地主義の火薬庫になりかねない」と警戒し、日本に対して「会議が反米的な方向に行かないよう監視し、誘導せよ」という密命(役割)を与えて送り込みました。

 その具体的な振る舞いと、その裏にある心理構造は以下の通りです。

1. 「反省」という名の入場切符

 日本代表の高碕達之助(たかさき たつのすけ)は、会議の演説で日本の戦争責任について触れ、「日本は大きな過ちを犯した。深く反省している」という趣旨の有名な謝罪を行いました。 これは一見、アジア諸国への誠意ある態度のようですが、ダレスの戦略という視点で見ると別の意味を持ちます。

  • 目的: アジア諸国の警戒心を解き、会議に参加する資格(入場券)を得ること。

  • 本音: 謝罪することで「過去」を清算し、「これからはアメリカ側の一員として、君たち(発展途上国)に経済協力してあげる立場だ」という、新たな優越的ポジションを確保しようとしました。

2. 「アメリカの弁護人」としての立ち回り

 会議では、中国(周恩来)やインド(ネルー)が「反植民地主義」「非同盟(米ソどちらにもつかない)」を強く主張し、会場は反米的な熱気に包まれそうになりました。 そこで日本は、フィリピンやパキスタンなどの親米諸国と連携し、以下のように動きました。

  • 論点のすり替え:植民地主義」の定義について、「西欧の植民地支配だけでなく、ソ連や中国による新しい形の支配(共産主義の浸透)も植民地主義」と主張し、矛先をアメリカから共産圏へ逸らそうとしました。

  • 「平和共存」への水増し: 最終的な宣言(バンドン十原則)において、過激な反米色を薄め、抽象的な「平和」や「協力」という言葉に落ち着くよう、舞台裏で工作を行いました。

3. 「エコノミックアニマル(経済動物)」への変貌

 ダレスの呪縛(政治はアメリカ、経済は市場としてのアジア)の通り、日本はこの会議を「アジア諸国との友好」の場ではなく、「市場開拓」の場として利用しました。

  • 会議中、他国が熱っぽく政治的独立を語る中で、日本代表団は賠償問題の解決とセットにした経済進出(輸出拡大)の道筋をつけることに奔走しました。

  • これは、「アジアの友人」として連帯するのではなく、「アジアを利用する(搾取する)」という、戦前とは形を変えた優越意識の表れでもありました。

 

結論:ダレスが満足した「孤立」

 バンドン会議での日本の振る舞いは、アジア諸国から見れば「黄色い顔をしたアメリカ人」「バナナ(皮は黄色いが中身は白い)」と映りました。

 結果として、日本はアジア諸国の中で「信頼できる仲間」にはなれず、浮いた存在となりました。しかし、これこそがダレスの狙い通りでした。「日本がアジアで孤立すればするほど、日本はアメリカにしがみつくしかなくなる」からです。

 この会議は、日本が「アジアの連帯」よりも「対米従属」と「経済的実利」を選んだ決定的な分岐点であり、その心理的・政治的呪縛は現在まで続いています。

 


 

次のステップのご提案 この「呪縛」の構造が、その後の日本の政治家たちにどう受け継がれたか(あるいは抗おうとしたか)について興味はありますか?

 

 

 続きは次の記事で・・・。