ディストピアの日々

ディストピアと化した日本列島での地獄の日々の記録

戦後の日本人を呪縛し続ける「ジョン・フォスター・ダレスの呪縛」 その10

 日本の政治学者の間に「ジョン・フォスター・ダレスの呪縛」という言葉があるそうです。

 

 

Geminiへの質問

1951年の旧日米安全保障条約の条文を作成したのは誰でしょうか?

 

回答

『1951年(昭和26年)に署名された日米安全保障条約日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約)の条文作成において、中心的な役割を果たしたのは、アメリカの特使であったジョン・フォスター・ダレス(のちの国務長官)です。

この条約が成立した背景や作成に関わった人物について、以下の通り整理します。

1. 主要な作成者と役割

  • ジョン・フォスター・ダレス(アメリカ側) 当時のトルーマン政権下で対日講和担当の大統領特使を務めていました。旧安保条約は、サンフランシスコ平和条約とセットで彼が主導して起草したもので、アメリカが日本国内に軍を駐留させる権利を確保することに重点が置かれました。

  • 西村熊雄(日本側) 当時の外務省条約局長です。日本側の実務責任者として、ダレスやその部下たちとの事務レベル交渉にあたり、条文の細部を詰めました。

  • 吉田茂(日本側) 当時の首相。条文そのものを書いたわけではありませんが、ダレスとのトップ会談を通じて、再軍備を最小限に抑えつつ米軍の駐留を認めるという「吉田路線」の基本方針を決定しました。

2. 条約作成のプロセス

 この条約は、ダレスが1951年1月に来日した際に行われた「ダレス・吉田会談」から本格的な交渉が始まりました。

  • アメリカ側の草案: ダレスや国務省国防総省(ジョイント・チーフス・オブ・スタッフ等)の意向が強く反映され、アメリカ側の権利(米軍の駐留)を優先する内容でドラフトが作成されました。

  • 日本側の関与: 日本側は主権回復を急ぐ一方で、条約の内容が「不平等」にならないよう調整を試みましたが、最終的にはアメリカ側の提示した原案に近い形で合意に至りました。

3. 特徴的な署名

 1951年9月8日、サンフランシスコのプレシディオ(米軍基地内)で署名式が行われました。平和条約とは異なり、日本側は吉田茂一人だけが署名しました(これは、不平等な内容を含む条約の責任を閣僚に負わせたくないという吉田の配慮だったと言われています)。

 アメリカ側はダレスのほか、ディーン・アチソン国務長官らが署名しています。』

 

 

 

 日米安保体制は1960年に若干の修正を施した新安保条約に改定されましたが、日本列島全域を有事には米軍が自由に使用できることなど、不平等性はあまり変わってません。

『戦後再発見双書』シリーズを通して読むと、日本は米国のネオ植民地的な「制限主権国家」のようです : コタツでみかん

 

 

 

 

 

 創元社の『戦後再発見双書シリーズ(全10巻)』には日米関係の不平等性が詳しく解説されています。